春一番

庭の猫柳が朝日に輝いていました。
最近福島の雪国から出て来た母は「ありがたい,ありがたい」と言うのが口癖になりました。

午前中は温かく、庭でゆっくりと呼吸をし、その後、笛を持って散歩に行きました。

薬師公園の梅も少し開きはじめ、1時間程気持ちよく吹いてきていました。

氣の呼吸法を意識して吹ききるようにしています。臍下の一点を意識してゆっくりと長く吹けば吹くほど澄み切った音が出てきます。

午後、87歳になる母が膝を引きずりながら、庭の菜園で21個のメキャベツを採ってきてくれました。

昭和20年8月6日に広島に原爆が落とされた時、看護婦としての資格があった母は次々と運び込まれてくる大勢の被爆者の手当てをしてあげたのだそうです。当時江田島海軍兵学校の教官をしていた父と兵学校の近くの津久茂に住んでいました。朝の掃除をしようと箒を持って立っているとガラス越に強烈な光が見え、外を歩いていたおばあさんが、突然ものすごい悲鳴を上げ道路に倒れこんだのだそうです。その後ものすごい音がして広島上空にピンク色のきのこ雲がモクモクと上がったそうです。恐ろしくなって母は防空壕の中に入ってじっとしていたそうです。母は直接の被爆はしていません。しかしその後、被爆の被害者が目の前の広島から次から次と津久茂小学校の体育館に船で山のように運ばれてきて、その方たちを数日間一生懸命に介抱したのだそうです。「痛いよー!痛いよー!」と泣き叫ぶ子供の声が今でも耳から離れないと言います。その日は日曜だったので中学生の長女、次女、そして男の子の家族5人で広島に遊びに出かけていた一家(津久茂の上のほうに住んでおられた方)が焼け爛れた哀れな姿で運ばれてきたそうです。母親が最初に息を引き取り、三人の子供達が泣きながら次々に息を引き取り、最後まで家族を励ましていたお父様が、見知らぬ母に後をよろしくと言って亡くなられたそうです。親子、兄弟、沢山のかたが息を引き取られる瞬間を見た母は
どうしたらよいか途方にくれていたそうです。

原爆とは本当に恐ろしいものです。

原爆が投下された時、父は本土決戦に備えて軍艦で千葉県館山に出向いていたそうです。その直後江田島に戻ってきて15日の玉音放送を聞きました。父は涙を流し、後から行くから先に故郷へ帰るようにと、母を汽車で一人故郷会津に帰したそうです。22年4月に私は奥会津で生まれました。その父も89歳で2年前に大往生しました。亡くなる前日も雪降ろしをしたり、好きなお酒「花泉」を飲んで、上機嫌で私と電話で話をしました。その日の最後の言葉は「いろいろ有り難うな」でした。翌朝、母が朝風呂の中で倒れている父を発見しました。海軍で鍛えられたせいか、仙骨のピンと立った姿勢の良い父でした。父の癖は何と肩を二回上下させることでした。母と二人で、「ほら又やってるよ!」と笑っていましたが、今考えると父は自然と氣を出していたのです。町の人たちから愛されていた父の町会議長としての演説にはいつも何か心打つものがあったそうです。

母が笊に野菜を入れて家の中に入ったとたんに強風が吹き始めました。

それにしても今日の午後からの風はすごかったですね。

まさに春一番でした。

もうすぐ温かい春が来ます。